アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合

東西アスファルト事業協同組合講演録より 私の建築手法

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私の建築手法
坂 茂 - 作品づくりと社会貢献の両立をめざして
災害と建築家(1)
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東西アスファルト事業協同組合講演会

作品づくりと社会貢献の両立をめざして

坂 茂SHIGERU BAN


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災害と建築家(1)

世界ではさまざまな災害が起こっています。一口に災害といっても地震や洪水といった自然災害もあれば、人為的な災害もあります。アフガニスタンで起きている戦争、そしてそれによる大量の難民発生などは人為的な災害といえるのではないでしょうか。

自然災害で人が亡くなるケースにおいて、その原因のほとんどは人為的なものです。地震で人が亡くなるのではなく建築の崩壊で人が亡くなるのです。それが違法建築であって、決められた耐震性能をもっていないとすれば、それは完全な人災といえるでしょう。また、洪水も森林伐採が原因で規模と頻度が多くなるので、建材のための森林伐採も建築と大いに関係があります。その意味で、われわれ建築家は災害に対して大きな責任があるのです。災害に対して何かできることはないだろうか、最近はそのような視点で考えることが多くなりました。

ルワンダ

1994年、ルワンダで内戦があり、200万人近くの難民が発生しました。アフリカは比較的暖かいところだと思っていたのですが、雨期に多くの難民が毛布にくるまって寒さに震えあがっていたのです。そのとき思ったのは、こんな粗末なテントしか与えられないのであれば、いくら医療活動をしても意味がないということです。以前から紙管を使ったシェルターの可能性を考えていた僕は、すぐにジュネーブの国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)を尋ねました。

ここでは、ノイマンさんというシェルター担当の建築家とめぐり会うことがでさました。昔ルイス・カーンのところにいたというノイマンさんによれば、難民キャンプにおける最大の問題は環境問題だということです。従来、国連は四メートル×六メートルのプラスチックシートだけを支給していました。だから難民たちは自分たちで木を切って、シートを支えるフレームをつくります。難民キャンプではシェルターだけでなく料埋や暖房にも木材を使うため、どんどん森朴伐採が進みました。このため国連難民高等弁務官事務所はフレーム用にアルミパイプを支給したのですが、今度は皆それをお金のために売ってしまい、森林伐採に歯止めは利かなかったのです。このような状況の下、アルミパイプに代わる材料を探していたノイマンさんの目に、僕の提案した紙管は非常に魅力的な材料と映ったようです。僕は国連のコンサルタントに雇われて、その開発を始めました。

ただ資金も足りないので、スイスのヴィトラという有名な家具会社にシェルター建設の実験の協力をお願いしました。ヴィトラはフランク・ゲーリーやアルバロ・シザ、安藤忠雄、ニコラス・グリムショウ、またザハ・ハディドといった世界中の有名な建築家に建物を建ててもらって、高価な建物をコレクションにしている会社ですが、僕のシェルターは彼らの一番安いコレクションです。

その後、コンゴで内戦があり、コンゴからルワンダに難民が押し寄せました。ビュンバの難民キャンプでは、僕のつくったシェルター50軒を実際に使ってもらい、難民たち自身で組立られるかといった試験をはじめとして、防水性能、耐久性、シロアリの問題などのモニタリングをしています。

神戸
新湊川公園の「紙のログハウス」外観
新湊川公園の「紙のログハウス」
外観

阪神・淡路大震災によって家を失ったベトナムの人たちが、神戸市長田区の鷹取教会に、集まっていることを新聞で知りました。震災などでいちばんたいへんな思いをするのはマイノリティーの人たちだろうと思い、震災直後に教会へ行きここを中心に活動を始めました。震災から三カ月くらい経った時期に、ベトナムの人たちがテント生活を送る南狛江公園に行きました。このテントは、雨が隆ると床が水浸しになりますし、天気のいい日には室温が40度くらいまで上がってしまう、非常に非衛生的なものでした。また悪いことに、まわりの家やマンションの人たちが、もとの生活を取り戻すにつれ、この公園がこのままではスラム化してしまうといって、区役所に陳情して彼らを追い出そうとしたのです。

この公園にはベトナムの人たちだけではなく日本の人も住んでいたのですが、ベトナムの人たちは政府のつくった仮設住宅に移れなかったのです。というのも彼らのほとんどは近所にあるケミカルシューズ工場で働いており、郊外の仮設住宅に移ると通いきれずに仕事を失ってしまいます。また、やっと日本の学校に馴染んでさた子どもたちにとっても、転校したらマイノリティとしていじめられるのではないかという意識があったようです。僕は、もう少し衛生的でしかももっときれいな住宅を計画的につくれば、まわりの人も追い出しにかからないのではないかと思い、急きょ仮設住宅「紙のログハウス」の建設を始めたのです。

新湊川公園の「紙のログハウス」内観
新湊川公園の「紙のログハウス」
内観

壁と小屋組は紙管、墓礎にはビールケースの中に砂袋を詰めて使いました。キリンとアサヒ、どちらのケースを使うか迷ったのですが、紙管との色の組み合わせを考えてキリンに寄付をお願いしました。本当はビール入りで寄付してほしかったのですが、ケースだけが届き、ボランティアのみんなはとてもがっかりしたようです。夏の間に学生たちと、お金の続く限り三十軒つくりました。テント屋根で二重になっています。妻面を開けると空気が流れ涼しくなり、これを閉めれば空気が溜まり断熱牲能が増します。

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