アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
「熊本県営保田窪第一団地」は、110世帯の集合住宅です。110という数に根拠はありません。敷地の大きさとコストと容積によって偶然に規模が決まっているだけです。すると、偶然に集まってきた人たちが、偶然そこに生活せざるを得ないわけです。そこで例えば突然、コミュニティといわれても成り立つ基盤などどこにもありません。知らない人たちが偶然同じところに集まるのですから当然です。集合住宅はそんなものだということができます。
では、人が集まって住むことはほんとうに根拠があることでしょうか。集まっていることは経済的にさまざまなメリットがあると思います。でもそこに生活するという視点でみるなら、集合住宅はほんとうに要請されてそこにあるのか、それともやむを得ずあるものなのか、なかなか判断が難しいと思います。集合はしていてもひとつひとつのユニットはなるべく相互に干渉し合わないほうがいいのかもしれませんし、隣同士出会わないでそれずれまったく孤立していたほうがもっといいのかもしれません。
現に多くの集合住宅はそのようにできています。どのようにみんなが一緒にすむかという、その方法については今までにも多くの研究がありますし、成果を上げているのではないかと思いますが、でもなぜ集まって住むのかという、その根拠については不問であるようにも思います。集まって住む時に、何を契機にして人が集まるのか、という「何を契機」にということが完全に抜けているのです。集合住宅のプログラムはどこにもないし、たまたま集まって住んでいるからそれを集合住宅と呼んでいるだけなのです。
建築に先立つプログラムがあるという話は実にあやしいという気がします。お話してきたように、建築空間の構成がプログラムを決めてしまっているところがあるからです。私は建築は常に仮説だと思うんです。われわれは仮説を構築して、それを建築として実現しようとしているのです。ですから、われわれ建築家は相当危なっかしいところで仕事をしているのではないかと思います。
建築というかたちが社会の枠組みを決めているところがあると思うのです。例えば、家族という制度が建築によって決められてしまっているのかも知れない。そして、ときにはありえないようなモノをもつくり出しているかもしれない。社会から何の要請もないのに、建築が出来上がってしまい、それがある社会の枠組みをつくっていることがたくさんあるのではないか。そういった暴力性をわれわれはもってしまっているように思います。
拘束性、ものごとの秩序を決めていってしまう暴力性を、建築が持っていることを前提として建築について語るべきだと思います。