アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合

東西アスファルト事業協同組合講演録より 私の建築手法

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伊東 豊雄-建築の仮設性
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東西アスファルト事業協同組合講演会

建築の仮設性

伊東 豊雄TOYO ITO


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椅子ひとつでも場が発生する
伊豆長八美術館の椅子
伊豆長八美術館の椅子

ここで、もう一度さきほどの包というものの意味を考え直して見たいと思います。まず包があって、そこになにか家具が置かれているという風にこれを見ないでいただきたい。ここで眠るとか、本を読むとか、食べるといった行為がまずあって、そしてまるで洋服を着るように、一枚の布がその行為の場を覆う。翌日はもうこの場にはいないかもしれない、というぐらい気楽なものとして、建築を考えていけないだろうか。本当に包をかついでどこかへ移動するということではなくて、精神的にそれぐらい軽い建築をつくりたいということです。

実はさきほどの「N0MAD」も、香港へ行って屋台でお酒を飲んでいるときに思いついたんです。「よし、六本木に屋台をつくってやろう」というのが発想の始まりです。そうすると、最初のイメージは椅子がズラーツと並んでいて、そこに遊牧民の若い人たちが集まってくる。その上をまるで雲のようにテントかなにかの屋根がかかっているというものでした。「N0MAD」を設計しているころに、ちょうど初めて椅子をつくりまして、それを使っています。エキスパンドメタルをくるっと曲げただけの椅子なんですが、使ってみました。

椅子は普通は形として考えられてつくられるものなんですが、私が家具をつくるときに、できればこういう風に考えてデザインしたいなと思うことは、人間のシルエットがそこに浮かび上がってくるような椅子、人の影みたいなものとしてその椅子ができてくるとおもしろいと思うわけです。ですから、椅子が三つそこにあると、人が三人集まっているような形ができる椅子、さらに、そこにテーブルがあれば立派な食べる場なり、話し合いの場なりができてくることを期待するわけです。まず、いくつかのこうした場、つまり食べる場なり、体息する場なりがあるとすると、この二つの場の上を最低限の覆いで覆ってやると、そこに家ができていく……といったような家を考えていきたいと思って設計しております。

少し前に、石山修武さん設計の「伊豆の長八美術館」のテラスのために椅子をデザインしました。プールサイドのデッキチェアのようなものです。素材はエキスバンドメタルを曲げたものでスチールの骨にかぶせてあります。スプリングで少し沈みます。この椅子の場合は、水着を着た人がプールサイドに寝そべっている姿を想定しています。いってみれば昔の藤でできた傾斜の変えられる椅子を新しい素材に置き換えただけといえます。

この椅子が二○脚ばかり水面を中心にぐるっと配置されていると、そこになにか人の集まったような形ができてくる。そして、その上にある覆いをかけてやれば、それでまたN○MADのようなスペースができていくにちがいないと思います。

以上のような考え方をしておりますので、大学で設計課題を教えるときなどでも、「まず家具から考えて、それに覆いをかけて住宅にしていってみてください」というような課題をよく出します。内側から発想をスタートして、それを行けるところまで広げていくということで、建築としてはどこからどこまで成立するのかというようなことを考えているわけです。

日本の住まいがパフォーマンスで成立しているということは、いまに限られたことではないというのを表わす例があります。たとえば明治時代のちょっと中国風の家の写真なんですが、襖を開け放ってしまうと、非常にオープンな広間になる。そこにテーブルが置かれてごちそうが並べられる。そこに人が多数集まってきて独特のスペースができていく。そして、それ以外の余分のところは、雲か雷がたなぴくように意味を持たない、いわゆるま間のスペースができている。とたった一枚の写真でもこれだけ多くのことを語ってくれるわけです。

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