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東西アスファルト事業協同組合講演録より 私の建築手法

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内井 昭蔵 - 「建築と装飾」
光と闇に親しみ、装飾を知る
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東西アスファルト事業協同組合講演会

「建築と装飾」

内井 昭蔵SYOZO UCHII


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光と闇に親しみ、装飾を知る

次は、私がなぜ装飾に傾いていったか、それほど装飾に興味を持つにいたった背景を少しお話ししたいと思います。

誰でも子どものころは光ったものや小さな破片とかが好きなものです。私も子どものころからそういうものが非常に好きでした。親からどうしてそんなものばっかり大切にするんだといつもいわれていました。これには、私の生活環境が強く影響していたのではないかと思います。

現在はそれほど熱心なクリスチャンとはいえませんが、私の生活してきました環境は、ロシア正教、日本でいえば日本ハリストス正教会といいますが、そうした環境で育ちました。非常に特異なキリスト教の流れです。お茶の水のニコライ堂がそうです。ビザンチンから東欧を通り、ロシアを通って日本にたどり着いた東方教会です。この世界は独得です。私の祖父は司祭をしておりました。神職者です。どうして、そういう道を歩いたのか不思議に思って、そのルーツを少々調べたりもしております。これは、いつか機会があれば本にまとめたいと考えております。そうした祖父の関係で、子どものときからずっと教会で生活していましたので、ロシア正教会の持つ空間と祈りと形との関係が、幼児期にすでに強く印象づけられたように思います。

ロシア正教会はオーソドックスと呼ばれます。このオーソドックスとは正統派ということですが、まさにロシア正教は正しい、正統的な考えをもとにしています。オーソドックスとはオルソスとドクサというぷたつの言葉から成り立っています。オルソスとは正しいというギリシャ語です。ドクサというのは教えという意味もありますが、神を讃えるという意味です。このオーソドックスというのがロシア正教の理念です。そこで行われているのは、遠くキリストの生まれた時代からの伝統を、非常にきっちりと守るということであり、伝統と形式を重要視します。形式とは、神を讃える、すなわち信仰を形に表すということです。コンセプトと形が一体になるということ、生活と祈りが一体になるという教えです。これはキリスト教の他の宗派にはなく、オーソドックス、つまりロシア正教やギリシャ正教だけに見られる独自の考え方です。

家庭でも、あるいは教会においても、街の中でも、いたるところが祈りの場になります。ドストエフスキーの文学などに、そうした感じはよく表れていると思います。生活空間のいろいろなところにイコンがあります。イコンというのはイメージという意味ですが、キリストや聖人たちの聖像です。ロシア正教は偶像を認めませんので、板に描いたり、金属に描かれたものもありますが、ある形式に則った聖人たちの絵をイコンと呼ぴます。イコンのあふれた世界、そして、ローソクとか乳香とか、人間の和声の詠隊というのは聖歌のことですが、そういったようなものが一体となった空間にずっと生活していますと、光ったものとか、瞑想的方世界とか、闇とかに非常に興味を持つようになります。そういうものを身体で体験していますと、心にある信仰は形として明らかにされるべきであるという教えが、建築に通じるのではないか、まさに建築そのものであると思えるわけです。コンセプトは言葉ではなく、行動とか形で表現されるということです。

以上のような、私の育った環境が、私と装飾を、なんらかの形で影響して結びつけていったように思います。

私が学生のころは、モダニズム全盛で、機能主義の時代でした。コルビュジエとかミースといった人たちの作品に示されるように、非常に厳格で、装飾を排除するという教育を受けました。罪悪とまではいわないまでも、装飾性はタブーということになっていました。卒業して務めた菊竹清訓建築設計事務所でも、機能主義すなわちモダニズムの考え方にもとづいたものでした。メタボリズムという考え方も、建築のフロー化を目指したものです。そうした中で、私自身としてはどこか割り切れないものを感じていました。そして子どものころからある、伝統とか古いものに対する愛着とか、ストックとしての建築の持つ意味を手にしていたというか、培っていたような気がします。

独立して、初期のころは住宅や集合住宅を手掛けておりました。そのころは、装飾ということはあまり意識してはいませんでした。しばらく後に寺院建築の設計を依頼されました。といっても独立してまだほんのしばらく経たころです。日蓮宗の寺院でした。そのときに宗教空間はいかにあるべきかということを考えました。そして、教義そのものが建築の形態、あるいは空間とならないと、宗教建築にはなり得ないということに気がつきました。

東京YMCA野辺山高原センター
東京YMCA野辺山高原センター

この仕事に引き続いて、いくつかの宗教建築をやりました。そのうちに、YMCA野辺山高原センターを設計することになりました。これは長野県野辺山高原に建ったものです。非常に広大な敷地にいくつかの施設を分散配置するという計画でしたが、費用の点で中心の施設だけが完成しております。そのときに、キリスト教精神にもとづく、野外活動の教育理念を形態に表さなければならないという必要性を痛感しました。青少年野外活動とは自然の中で集団生活を行うことで自己を見つめ、集団生活の規範を学び、宇宙に同化する喜びを満たすことであります。そのような場として建築がなければなりません。建築はその場合、限りなく自然と同じ構造を持ち自然と連続し、人々の心をゆり動かすカを持たねばなりません。単に合理的かつ機能的のみに止まらず青少年の精神に刺激を与えることが必要と考えました。その精神性は通常は抽象化された形態や構造むき出しのものになると考えられますが、人間の心を動かし精神を呼び起こすには抽象や合理性のみの形態では不可能です。なぜならば、人間の心を動かすのは「もの」ではなく人間であるからです。正確にいえば「もの」の背後に宿る人間性、といったほうがよいでしょう。私たちは「もの」をつくる立場におりますが、その「もの」にどれほど人間のイメージを塗り込むことができるかということが重要です。私は人間性を宿すとすれば、それは構造体でも空間でもなく、装飾にあるのではないかと思います。装飾といって誤解を受けるといけないのでディテールといい直したほうがよいかも知れません。人間の精神性は抽象化された幾何学や軸線、対象性にあるというのは正しいと思います。しかし精神性というのはむき出しの構造のみでは人間が不在となります。建築とは感覚と理知の総合融和されたものです。理性の上に感性が花開かねばなりません。装飾は人間の思想や性格の表現手段に他なりません。無言は何にも増して価値があるといわれ簡素なもののみが美しいとされがちですが、常に簡素なもののみが美しいとは限らないと思います。自然を見るとよいと思います。自然の樹木は暗示的です。幹、枝、葉、それぞれが一つの統帥の原理のもと形態を形成されています。その全体像の複雑さこそ装飾性に通じるものを感じます。自然は単純であると同時に複雑だということです。

これが、私が装飾性といったことを考えるようになった契機なのです。つまり、人間が近づきやすい建築、なじみやすい建築とは一体どういうものであるかということを考えるようになりました。なじみやすさとか近づきやすさというのは、建築が持つべき最低の条件です。公共建築にとっては、これらが最も重要であるにもかかわらず、近づきがたく、なじみにくいものが多いように思います。では、どうしたらいいかというと、人間の心や姿やイメージがいろいろなところに読みとれるようにすることが、建築を近づきやすくする根本だと思います。もちろん、寸法だとかプロポーションとか、形態や色やディテールといった技術的な問題もあります。しかし、まずは人間の心の通う建築をつくっていきたいと考え始めたというわけです。

以上が、私と装飾とのつながりです。

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