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東西アスファルト事業協同組合講演録より 私の建築手法

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隈 研吾 - キノコと建築
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2010 東西アスファルト事業協同組合講演会

キノコと建築

隈 研吾KENGO KUMA


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質疑応答
 
最近、公共建築の発注者が冒険しなくなり、面白い公共建築が建たなくなってしまっているように感じます。
本日はスライドでさまざまな公共建築を紛介していただきましたが、限さんはその点について、どのようにお考えですか。

ここ20年くらいでしょうか、公共建築に対して、箱物であるとか、税金の無駄遣いだとか、ゼネコンや選挙のためにやっているんだとか、厳しい意見が多く、逆風の時代が続いていると感じています。さらに、公共建築が冒険的な設計をすることに対して、予算がオーバーすることや、いろんな事故の可能性を懸念して、設計者サイドもかなり保守的になっています。しかし、本当にそれでよいのか、私は疑問に思います。

これは、海外のコンペを経験して感じたことですが、ヨーロッパの公共建築は、逆風の中でもちゃんと丁寧につくられています。一概に公共建築を悪者と考えるのではなく、どんな公共建築がその街にどんなプラスになるかを考え、慎重にコンペを行い、コンペで設計者が決定されてからも市民に対する説明会を何度も行う。私もそういった説明会に何度も出席しました。日本人だからなのか、毎回なぜか上手く進みましたが、下手をすればものすごく叩かれるのだそうです。本日は紹介しませんでしたが、フランスの「ブザンソン芸術文化センター」のプロジェクトでは、その街の市長さんに、初めて会ったその時にこんなことを言われました。「建築家にとって、今の状況は本当に厳しいですよ。フランスで『私は建築家だ』と言うことは、『私は世間知らずの馬鹿です』と言っているのと等しいのです」と。建築に対する逆風は日本と同じですが、彼らはそれを乗り越えるようなよいものをつくろうとしていました。

それに比べると、日本では長期的な視点で都市や建築について考えられる人が少なくなりました。それは社会にとって非常に大きな煩失です。何十年後の将来に、まともな公共建築、面白い公共建築が消えてしまいかねない。守りに入り受け身をとっている社会は、非常に弱く魅力のない社会だと思います。

私も、今の逆風を超えるような建築を、数が少なくても着実につくっていきたいと考えています。

 
隈さんが、京都の町家のような、日本建築の残る街で何かプロジェクトを考えるとしたら、どういったものをつくられますか。

そもそも、町家のような日本建築の、最大の魅力は「粒の揃い方」だと思います。実際、日本建築ではそんなに太い材木は使わないですよね。経済性、地域性の理由など、いろんな条件がありますが、ある一定の寸法を基準にして全体をつくっていきます。それに、瓦の粒も揃っていますよね。

その粒の揃った中に異質なものを入れ込むことは、非常に暴力的なことだと思うので、街の中ではその粒を尊重しながら、しかし内部へ入るとまた遣った驚きがあるような空間をつくりたいなと思います。

 
本日お話いただいた中で、「石の美術館」は非常に予算の少ない仕事だったが、面白いことができそうだったので引き受けたというお話がありました。そこで、限さんが仕事を受ける際の判断基準がありましたら、お話いただけますか。

事務所を始めた頃は、まさか自分が仕事を断ることになるとは思ってもみませんでした(笑)。最近は、「Great (Bamboo) Wall」の影響のせいか、中国のプロジェクトのオファーが非常に多くなってきています。私の名前でマンションやヴィラを売ろうとするデペロッパーが山ほどいて、監修だけでもよいからやってくれないかと言われます。中国では個人で土地を購入し、戸建て住宅を建てることが許されておらず、すべて政府が管理している専門の開発業者が土地の購入から建設まで行っています。中国では経済成長が至上命令ですから、生産業だけではまかなえない分は、不動産業で補うという背景があって、膨大な量のマンションやヴィラが次々に建設され、売りに出されているのですね。基本的に、そういった名前を利用されるだけのデペロッパーの仕事は受けないことにしています。

後半にお見せした小さなプロジェクトでは、展覧会の作品がほとんどなので、設計料はもらえません。こういったプロジェクトでは、実験的なことに挑戦しているので、検討に膨大な時間と人数を必要とします。しかし、依頼されたらほとんどを引き受けるようにしています。タダで引き受けているので、実験性があり、自分でも何か得るものがないとやる意味がありません。

 
「粒の揃っていないもの」の面白さはあるのでしょうか、あるとすればそれは何だとお考えですか。

揃ってはいないけれど粒である、という建築には面白さがあるかもしれ。しかし、その粒を無理に変えるようなことをすると、わざとらしさが気になってしまい、スムーズに空間に入り込めないような気がしています。だから、あまり無理に粒を変えるようなとはしません。「馬頭町広重美術館」で柱とルーバーの細さについてお話したように、鉄の柱をどんなに紹くしようとしても木のルーパーまでは細くすることはできませんでした。粒を揃えようえようとしても、元もとの持っている性質やそれが担う機能、性能によって揃えきれない、ということもあるのです。だからといって、放り出してしまったらよい建築はできません。揃えられない粒を可能な限り揃えていく努力や、ギリギリところのせめぎ合いが、建築の緊張感を生み、それが空間の感動へ繋がるのではないかと思います。

 
ジョン・ケージがキノコオタクだというお話が出ていましたが、それでは、隈さんは何オタクですか。

学生時代は、建築オタクでした。建築を見にいくことしか楽しみがありませんでした。今は、どちらかと言うと、食べ物オタクかもしれません。年間で休みは元旦くらいで、ゆっくりと休む暇があまりないので、唯一の楽しみは、打ち合わせの後の食事くらいなのです。いつも食事をどう楽しむか、いかに食べることに楽しみを見出すかということを考えています。

ひとつ、食べることに関して、ある打ち合わせ後の食事の中で興味深い話を聞いたのでお話したいと思います。中華料理と粒についての話です。

環境を構成する粒が揃っていて、同じ大きさであるということが、なぜ生物にとって気持ちよいのか、ということについて、中華料理のことを考えるとよく分かります。中華料理には美味しさの大原則があります。それは、具材をすべて同じ大きさに切ることなのだそうです。たとえば、青椒肉絲(チンジャオロースー)にとっては、ピーマンも牛肉ももやしも、基本的には同じ千切り状態であることが重要で、それによってどの具材も同じように味がしみ、同じように火が通り、口に入れた時も同じように噛むことができます。実は日本の丼物の原則も同じです。日本の丼物は、日本料理の中で唯一具材の大きさを揃えます。カツ丼でも何でも、具材をどのくらいの大きさに切るかということが大切であり、それは、丼物はかき込んで食べるからなのです。粒の大きさにこだわっているから、丼物を食べる時は「止まらない」という現象が起きるのですね(笑)。この時の脳波を測定すると、いわゆるランナーズ・ハイの時と同じ波形なのだそうです。環境と身体とが融合したような状態なのでしょうね。

 
たくさんのプロジェクトを進めていらっしゃいますが、大学の研究室と事務所とで、仕事はどのように振り分けていらっしゃるのでしょうか。また、事務所のスタッフと学生とで、教育方法に違いはありますか。

後半にお見せしたような小さなプロジェクトは、基本的に大学の研究室で取り組むようにしています。こういったプロジェクトはボランティアのようなものですから、大学という組織をフル活用して学生たちに頑張ってもらいます。学生にとっても、小さなプロジェクトとは言えど、図面を引くところからつくるところまで実際に携われるので、ものを実際につくることにどんな苦労があるのか感じられてよい経験になると思います。

たとえば、「織部の茶室」は、最初は、事務所のスタッフと内装専門の会社と協力して組み立てました。それを見たフランス・オルレアンの建築博物館の方から、うちにも展示したいと言われ、もうひとつつくることになったのですが、輸送費があまりにも高いので、日本でつくって送るのではなく、現地のフランスの学生につくってもらいました。その後、イタリアのシチリアとローマの大学でもつくったので、ヨーロッパでは三つ、中国の北京にもひとつ、岐阜にひとつと、「織部の茶室」は世界で五つあります。それぞれ、つくった学生たちの技量によって精度や雰囲気が微妙に異なっています。

国際コンペでも、アーバンデザイン系のコンペは大学の研究室で取り組むこともありますが、やはり建築系のコンペとなると、いろいろと経験が必要になってくるので事務所で行うことが多いです。ただ、事務所のスタッフでも学生でもそうなのですが、アーバンデザインが日本人はとても不得手であると感じました。建築物を設計せよ、というある程度枠組みが決まっているものだと高い精度でデザインできるのですが、アーバンデザインのようにいったん枠組みが外れて自由になると、途端にできなくなってしまいます。日本人の弱点ですかね(笑)。


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