アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
近代建築の先駆者たちが確信を持っていたように、いま、この技術の勢いをどんどん発展させていくと、ますます世界はよくなって住みよいものになるということは、もう誰もそのまま信じてはおりません。これは理屈じゃなく皆んなが実感していることといってよいでしょう。そうすると、問題は、私たちは一体どのように建築をつくっていけばいいのか、なにを目指して進んでいけばよいのか、ということになってきます。すなわち、私たちはもう一度出発点に立って、根本から自分のやるべきことを問い直さねばならない地点に立っているのです。ところがそこでもう一度、世界の建築を見直してみますと、やはり現在も建築の世界を支配しているのは、実は近代の初めのときの「建築か革命か」といったような前衛的な姿勢なんです。これがまだまだ強く建築家の心を支配しています。学生を指導していて、彼らの計画案を見たり、あるいは競技設計の審査をしたりしてみると、いまだに彼らをかき立てるものは、とにかく人と変わらなくてはいけない、何かこれまでにないものをやらなくてはいけない、といった気持ちであることが手にとるようにわかります。これはなにも若い人たちだけでなく、むしろ現代建築家のすべての心の奥深くに非常に強く存在しています。新建築などの建築雑誌のページを開いても、このことは非常にはっきりしていますね。
建築に限らず、世の中の物事すべて、いろんな出来事、芸術でもジャーナリズムでも、テレビでも新聞でも、とにかく世の中を変えていくためには、何かショックが要る、という認識が依然として強い。特に建築の世界ではそれが非常に強いといわざるを得ない状況です。これは、近代のモダニズムがつくってきたいちばん大きい間違いだと私はいまはっきり宣言したい。
建築は、他の芸術や技術と重なるところはもちろんいっぱいありますが、ひとつ建築だけが他の芸術よりも強く成し得る力は何かといいますと、世の中の文化の持続をつくっていく力だと思います。それが絵とか彫刻とか最近流行のファッションといったジャンルと絶対に違う点です。あるいは文学のように、社会をネガティブに批判するのでなく、ポジティブに提案していくのが建築の仕事です。これが私たちの仕事の誇りでもあり、支えでもあります。だからこそまた、建築に携わる者すべてのむずかしさも喜びもあるのです。ただ依然として近代初めの前衛主義が残っているというか、世の中の閉鎖的な状況をなくすには何か衝撃的なことをしなければという焦りが、いままた非常に強くなっていて、建築の世界を支配している。今日はそのことを細かくお話しするつもりはありませんが、近代の初めからの、技術的な意味での進歩そして経済的な繁栄によってむしろ明らかとなってきた人間の深い分裂に対して、いまだに時代遅れの革命思想にとりつかれている。これははっきりいって、十九世紀の亡霊みたいなものがさ迷っているだけだと思います。
改めていうまでもなく、芸術家にとって個性は大切です。若い人にとっては独自性を確かめたいという深い意欲、これも不可欠なことでしょう。しかし、そうした個性や独自性は、人間の共通性の上に築かれ、確かめられるということが何より重要なことです。だから、むしろ人間の共通性、普遍性を素直に受け入れていくという姿勢のほうが、本当の意味で今日の前衛的で革命的なことだという考え方を理解していかなくてはいけないのではないかと思います。
たとえば、コルビュジェが提案したパリの計画というのは、パリを全部壊して、非常に輝かしい超高層の住宅を建てる計画でしたが、もちろんそういうことが実際に行われたことはありませんが、行われたとすればそれはたいへん悲惨なことになっていたでしょう。ミースの鉄とガラスの建築も、彼にいわせれば、普遍的な形式ということで、その建物自体はたいへんきれいですが、大学も住宅も全く同じ姿につくられるとしたら、これはおそらく街の喜び、歩く喜びといったものはないと思います。こういった姿勢が示すように、近代の初めには何かひとつの決定的なある解答を出すことによって、世の中すべてをひっくり返そうという幻想がずっと続いて存在していました。いま社会革命のイデオロギーとしてそれは消えました。ロシアや東欧での共産主義の崩壊が何よりもよくそれを私たちに教えてくれました。しかし芸術、特に美術と建築の考えの中にはむしろ、ひとりひとりの前衛主義というか、ひとりの中では非常に強く幽霊のようにさ迷って残っているように私には思えます。