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東西アスファルト事業協同組合講演録より 私の建築手法

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槇 文彦 - 建築空間と物質性について
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東西アスファルト事業協同組合講演会

建築空間と物質性について

槇 文彦FUMIHIKO MAKI


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三○年前の国際化と現代の国際化

ご紹介がありましたように、私は大学を出ましてから三五年ぐらいたっているわけです。その間、非常にあわただしくやってきたような気がします。三五年ぐらいたってみますと、大学を出たころと何が違うんだろうかということも考えるようになることもあります。

私が大学を出た昭和二十年代の後半のころを考えてみますと、前がなかったわけです。前がなかったというとおかしいんですけれども、あまり建築に関する経験も知識もなかったという意味でそれ以前がなかったということがいえると思います。では、将来のほうはあったかというと、これは霞みたいでホワッとしていましてこれもよくわからなかった。つまり若いときというのは、過去、現在、未来という時間帯でいいますと、やはり現在に非常に強く生きていたわけです。したがって、現在から受ける刺激に対して大変敏感に反応する。当然そうであっていいわけで、またそれがいちばん若いということの取り得なんじやないかと、そのときはあまり気がつかなかったことを、あとになって気がつくわけです。

それはどういうことかといいますと、三○年ぐらいしますと、いままでやってきたこととか起きてきたことの意味を、ある程度実際に自分が経験していますから、読んだ歴史でなくて経験してきた歴史として自覚するようになります。将来のことは相変わらずよくわからないのですが、霞みたいでなくて少し見えている。そういうぷうな中で仕事をしているというのが、私の現在ではないかと思うんです。

これは何の前置きかといいますと、きょう「建築と物質性」というお話しをするわけですが、現代建築のもとにあった近代主義を考えるとき、私自身にとってもその間題が非常に大きいということと関連して、申し上げているわけです。

それからもう一つ、三○年ほど前、すでに日本では、ほかのジャンルでもそうだったと思いますが、特に建築というのは比較的窓が外に開いた分野でした。当時『国際建築』という雑誌があって、いまほど情報がなかった時代にそれはひとつの窓口であったために、われわれはむさぼるように読んだことをよく覚えております。非常に薄い本だったのですが、主としてアメリカ、それからヨーロッパの建築の情報が入ってくる数少ない雑誌の一つでした。いまに比べますと、そういう限られた情報の中で外に向いていた。それが日本の国際化ということだったと思います。

つまり、われわれが数十年間経験してきた国際化というのは、どちらかというとわれわれが外に向かって積極的に知識を求めたり経験を求めたりした国際化だった。ところが、この数年間少し状況が変わってきまして、端的に申し上げますと日本自身が他外国、他地域社会からかなり熱いまなざしで見られるようになりました。かつてわれわれがイタリアとかアメリカとかフランスとかへ向けていたのと同じようなまなざしを逆に受ける、そういった意味での国際化が進んできました。単にインフォメーションということだけではなくて、人の往来にしましても、あるいは仕事の面でも、ワンウエイでなくツーウエイになってきた。これは大変な差です。日本経済の復興とか、いろいろなことがそれに関連していると思いますが、われわれのものを考える上での意識の変革にもつながると思いますし、実際に仕事をしていく上で変わっていく様相がだいぶ出てきたんじやないかと思います。

たとえば、最近東京でやっております仕事で石を使っています。原石はポルトガルで出る花崗岩なんですが、この場合は高層ビルに使うのでプレキャストにして、カーテンウォール的に外壁に使うのですが、いままでですと日本へ全部原石を持ってきていたのがイタリアで原石を加工しております。日本より加工手間、つまりコストが安いわけですね。ですから、まずポルトガルからイタリアのカラーラという、大理石で有名なところなんですが、そこで加工しまして、それを船に積んで岐阜のプレキャストの工場へ持ってくる。そこでPC版に完成して、トラックで東京の新宿まで持ってくる。ポルトガル・イタリア・岐阜・東京という、非常にややこしいルートを取るのですが、それが端的に日本の状況を示していると思います。

同じころ、アメリカのS0M(スキッドモア・オウイングス・アンド・メリル)という有名な建築事務所のパートナーの一人が私の事務所へ来たときに、その話をしましたら、「いや、自分たちもそのカラーラヘ行って、石を加工しているんだ」といっていました。アメリカの場合はテキサスで出た石をヒューストンで使うのに、わざわざ船でカラーラヘ持っていって、そして石を加工して、またテキサスに持ってきて使うわけです。アメリカの場合は、おそらく技術的にもアメリカではもはやできなくなっている。ところが日本の場合は、技術の間題はさることながら、むしろコストの間題が非常に強く関係しているんです。

数週間前、その関係でカラーラの工場を訪れたんですが、イタリア最大の製材工場であるカンポローギというところですが、そこで加工されている石のうち四○パーセントがアメリカ、三○パーセントが日本、残りがその他というようなぐあいで、日本は大変な石のマーケットになっています。われわれが若いころは、まず石なんかはなかなか使えなかった。いまは小さないわゆる雑居ビルのようなものでも、結構玄関あたりに石を使うぐらい、石の使用がふえているわけです。そこへ行きますと、アメリカのシーザー・ペリがこの石を選んでいったとか、あるいはシカゴのヘルムート・ヤーンがやっているプロジェクトはこれだとか、世界中の超高層とか大規模な建物の写真とか実物とか、いろいろ見れるんですね。日本のもいくつか、大きな原寸に近いパネルを見せてくれました。

それから最近は工事現場へ行くと、たとえば東南アジアからの人たちが働いているとか、かつてヨーロッパで、戦後ドイツあたりが労働力が不足して、安い労働力というかたちでトルコとかギリシアとかポルトガルから人々を連れてきて、その後いろいろな社会間題も起きているわけなんですが、そういう状況も日本で起きてきている。

あるいは日本で、有名な外国の建築家がやってきて仕事をするとかしないとか、日本が熱いまなざしを受けているのは、単に建築の設計とか、何か面白そうなものがたくさんありそうだというジャーナリスティックな話だけでなくて、現実にわれわれがものをつくっていく中で、否応なしに国際化が進行しているということを、実際に経験する機会が非常に多くなってきた。

そう考えますと、これからどうなっていくかということは、われわれよりも若い皆さん方がいろいろなかたちで考えていかなきゃいけない間題じゃないかと考えます。ぼくなんかがきょうお話しできることは、これからどうなるんだろうという話よりも、むしろわれわれの現在というものが、どういう歴史を踏まえたものであったかということをお話しをしているということなのです。

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