アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合
私が大学を卒業する頃、都市や都市住居としての集合住宅が、日本ではひとつのファッションでした。集住することの意味や、都市生活の在り方が問われていました。一九二五年の同潤会アパート設立から、三〇年以上経った私の小学生時代でも、世田谷区の自宅付近で、集合住宅を見るのは、稀なことでした。一九六四年のオリンピックの頃でも、渋谷や、原宿に集合住宅ができたくらいで、一九五〇年から一九六〇年代の集合住宅の広さは四〇から六〇平方メートルで、非常に小さかったという印象でした。特に一九六九年の内井昭蔵さんの「桜台コートビレッジ」や、槙文彦さんの「代官山集合住居」は、私に強烈な印象を与えました。私の卒業設計の「UGRY DUCKLING(醜いアヒルの子)」は、そんな状況の中で生まれました。留学した頃の一九七〇年代のアメリカでは、UDC( United Development Corporation )の一連の集合住宅のプロデュースや、フィラデルフィアの「ソサイアティヒル」の計画で、建築家のイオミング・ペイやルイス・サワーの作品が際立っていました。しかし、この住宅のサイズやアメリカ流の計画では、日本の住宅事情との開きが大きすぎるという実感があり、英国のGLC ( Grater London Council ) =大ロンドン市に入りました。当時のGLCのテームズミードやカムデンタウンという区などで役人によってプロデュースされたニュータウンの中の集合住宅や、区立の集合住宅は、今でも日本の住宅が追いつけない空間構成やシステム、環境づくりがありました。私は今でも個人宅より集合住宅を多く手掛けています。それはこの青春時代の集合住宅、集住ということへのこだわりかもしれません。またプランタイプにおいてもあまり無理をせず、LDKだけでなくすべての室を大きくしようと考えています。特殊なことをするより今の日本ではスタンダードの向上が必要だと考えています。むしろ個々のプランタイプよりも全体としての街区の構成や、そのプログラム自体に今は興味があります。
アルディア・ヌーボはスペイン語で「新しき村」という意味です。大正五年から十三年にかけての、武者小路実篤の運動や、本のタイトル「新しき村」から命名しました。
日本では、集合住宅は居住者のゼネレーションが同じですから、ある日突然老人の町になる施設が多いと思います。一般住宅とライフケアをする老人用施設をつくり、三十年でライフサイクルができるようにした集合住宅です。茶室、ビリヤードルーム、アトリエ陶芸室、囲碁将棋室、アスレチックジム、プールなどいろいろ設けています。
中庭を四〇〇〇坪ほど取りました。大きい敷地のときは、なるべく何もない空間を次世代の人に確保しておき、広場などはデザインしていません。プールや劇場などいろいろな施設が付いています。住環境の中に劇場をつくってはいけないという規則があるのにたいへん驚きました。ところが床を平らにすると集会施設でも大丈夫なのです。ひとたび床に段々を付けますと、その集会施設は劇場となり、良好な環境を壊すという範疇に入るのだそうです。これは演劇がいかがわしいと思われていたり、ストリップ劇場などがそばに来ないようにつくられた法律の発想です。プールをつくるにしても公衆衛生法などがあり、何かと交渉しないとできない状態でした。
一般の住居タイプと、多世代タイプと老人用の三つが原則になります。全部で四百五戸ありますが、バリエーションを増やそうと二八五パターンを描いて怒られました。実際に確認申請で千枚ぐらいの図面を描いたと思います。
身障者用の車椅子を使ってドアの実験をしたりして、いろいろな備品を改良しました。例えば、ある老人が便所の前を何回通るかをコンピュータで制御し、通常十五回通っていた人が二回しか通らないと、本部ではその人が病気ではないかなどが分かるシステムや、車椅子の人のためにコンセントの一を床から四〇センチに決めたりしました。
地方の公営住宅は、いい場所にあります。そういうものを改良し、住まい方を考えることによって、その地域が活性化するのではないかと思っています。これは秋田県にある大館市の公共住宅です。公営住宅の特例加算を使いました。特例加算については非常に難しく書いてあり、それを理解するまでに時間がかかり、なかなか通常の設計時間の中ではできないことを学びました。
同じプランタイプをずらし、一メートルから一・五メートル以内で出っ張らせたり、ずらしたりして、エレベーションに見かけ上の変化を持たせました。立面の細かい柱などを見ると、ラーメンに見えますが、壁構造です。非常にローコストな建物になったと思います。 公共の部屋として、和室やちょっとした体操ができる部屋を設けています。町の人たちを集め、五〇〇メートル圏にこうした公益施設がないと、県に陳情し、約二年かかりましたが、やらせてもらうことになりました。引き戸を全部壁の中に納めることにより、少しリビングルームが大きくなります。ここでは、七〇平方メートル弱のところに十畳以上のリビングルームを取る提案をしています。
屋上は白鳥の観測や展望台ができます。この敷地が長木川に面し、全国でも有数の白鳥の飛来地でもあるので、いろいろな願いを込めて、アヒルの子がスワンになって飛び立つようにと、建物の名前を「スワンハウス」と名付けました。
長野オリンピックの施設です。プロポーザルコンペで、十九人の建築家の中から、長谷川逸子さん、内藤廣さん、冨永譲さん、松永安光さん、元倉真琴さん、遠藤剛正さんと私の七人が選ばれました。設計はコミッショナーの渡辺定夫さんのプロデュースのもとに、七人で各ブロックを調整しながらデザインするというもので、いくつかのキーワードがありました。
難しかったのは、一体の敷地に見えますが、建設省、郵政省、運輸省、八十二銀行と四つの敷地に分割されたその四者の主体で構成されていることでした。公務員宿舎は六十五平方を、八十二銀行たくさんありました。
冬でもこどもたちが遊べる公共の場としてウィンター・ガーデンや、ここでも大館と同じように回廊形式を取っています。