アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合

東西アスファルト事業協同組合講演録より 私の建築手法

マークアップリンク
トップ
私の建築手法
新居 千秋 - 建築の境界—文化運動としての建築
一九九〇年から一九九五年の建築(1)
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
2011
2010
2009
2008
2007
2006
2005
2004
2003
2002
2001
2000
1999
1998
1997
1996
1995
1994
1993
1992
1991
1990
1989
1988
1987
1986

東西アスファルト事業協同組合講演会

建築の境界—文化運動としての建築

新居 千秋CHIAKI ARAI


«前のページへ最初のページへ次のページへ»
一九九〇年から一九九五年の建築(1)
黒部市国際文化センター(1986)
黒部市国際文化センター(1986)
エースプラザ
エースプラザ

展示室
展示室
斜路や階段によりレベル差がつくられる
斜路や階段によりレベル差がつくられる

私は一九八五年から一九九〇年の間の三つの代表的な作品で、私にとってのモダニズム、クラシシズム、ポストモダンの勉強を終えました。一九九〇年になると、今まで主張してきた文化運動としての建築、プログラムの再構築、環境共生の問題、そして私にとっての、ポストモダンの建築を考えられる、「黒部市国際文化センター〈COLARE〉」、「複合文化施設悠邑ふるさと会館〈MEDITAION〉」、「山香町庁舎〈WIND GATE〉」の三つのシリーズを、コンペによって得ました。一九八五年から一九九〇年のスタディで学んだことはおおよそ次のようなことです。

1.近代の超克

建築が生気を失うとき、それはモダニティ=現代性を持っていないからです。近代の発生の頃は、それぞれの地域性やプログラムがありました。それが近代主義になるとイズムの単一なプログラムになってしまいました。その近代主義においては新しいことをはじめたので、「運動」や「観念性」が重要であり、観念性からは純粋性、抽象性、記号化が導かれました。装飾などの中間領域にあるものは、非観念的なので否定されました。諸芸術は分離し、純粋化の方向を取りましたが、観念的な原型にたどり着いたとき、孤立してしまいました。近代主義建築が世の中に出たときの情報手段や機械は、日々そのかたちの表現を変えていました。今情報や機械はかたちを持たないとすれば、逆に建築は本来あるべき姿と場所性を持つと思います。

2.Less is more to be mysterious

過去の連続的時間に対して近代の思考は、不連続的時間の概念を持っています。つる草や怪獣の絵が描かれていたイコンとしての建築が、メディアとしての意義を一時的に失い、ミースによってLess is moreとして解釈され、ヴェンチュリーによって、その失われたものに対しての解釈が、Less is boreという概念に書き改められました。ポスト・モダンでは増幅されて、More is moreとなり、その亜流としてのヒストリカル・クラシシズムは形骸化された概念として出現し、その既視感(デジャブ)があるゆえに否定されました。表層としての建築の解釈の近代におけるゲームが終わり、情報も、機械も再びかたちを持たないとき、表層を剥ぎ取られた建築の中に、本来あるべき姿としての時間、連続的時間、イコンとしての時間が見えます。それは空間の持つ平面と断面によってつくり出される関係であり、Less is more to be myseteriousと解釈できると思います。

3.浮遊・テクノロジカルなシーン

建築の存在する領域が、海底や宇宙へと拡大され、人間自身も身体から意識へと向かうとき、建築が浮遊する。そこに新たな連続的時間の概念や、テクノロジカルなシーンが展開すると考えられます。

4.プログラム

産業革命期に西欧でつくられたプログラムは、チュミのことばを待つまでもなく、解体しています。リオタールのいうはじまりに置かれた、忘却を考えることが、プログラムの再構築につながります。「構築する力」とは、すべてのことについて初源的なところから問い直すことであり、そのはじまりとプロセスが大事です。ポピュラリティを持つ建築は、表層やディテールだけでなく、綿密に考えられたプログラムを持っています。

5.抽象性と地域性

風景や記憶の中にある建築、それを煮詰めていくと、建築の抽象性と地域性に行き着きます。抽象性と地域性はそのどちらかというのではなく、両義性を持っています。

6.ランドスケープ

建築がランドスケープ化したとき、その建築がかつて自然と戦って、勝ち得た内部のスペースやパンテオン、サンピエトロなどの持っている、内部に閉じ込められた自然、外部と戦う力や、内部からの眼差しは生き残れるかというところがカギです。

7.建築家の立脚点

建築家の立つスタンスとは、おおよそ次のいぜれかに分類できると思います。

8.White on white...

建築も、その成立基盤となるところの社会も純粋であるとする無修正の近代主義、あるいは英雄主義の考え方

9.Gray on Gray...

建築もありのまま多様で、混沌とした状態(灰色)だと考える現実主義、あるいは商業主義の考え方

10.Gray on White...

その成立基盤をどこに徒労が、彼らの考えを通す土着主義、地方主義の考え方

11.White on Gray...

社会の灰色状態を踏まえた上で、抽象化した建築をつくる考え方(私は、?に近いと自分では思っています。)

12.標準設計、技術中心主義

現在の社会において環境を破壊したり、いろいろと問題を起こしているものに標準設計があります。建築の場所性を無視してどこにでも成り立ち、サイレントマジョリティの座を保持しています。日本では根本的な技術が後退して、新しい技術をつくろうという発想よりも、翻訳や改良の発想が主になっています。質という問題が精度ということで考えられており、質=プログラム=内容という発想がありません。

13.建築の公共性、社会性

日本では西欧のような切迫した都市や社会構成上の問題は西洋化を後追いするかたちでの導入であり、現在でも建築や都市や、環境に対する公共性、社会性の概念が希薄です。住民の思い入れや学習があって、建築家を選び、時間をかけて設計すべきだと思います。公共における入札や単年度予算でやるやり方では良い建築は育たないと思います。

黒部市国際文化センター〈COLARE〉

黒部の文化施設「COLARE」です。「コラーレ」は富山の方言で「来れ」という意味ですが、英語では“Collaboration of Local Art Resources”つまり「地域文化の創造の場」という意味です。

四年ほど前にコンペで獲得しました。日本建築センターのバックアップのもとに、審査委員長に近江栄さん、審査員は黒部市長の萩原幸和さん、池原義郎さん、内井昭蔵さん、葦原敬さんでした。大中小の劇場をつくるのが地方ではやっていました。しかし、これから建てる施設の地域を見た際、三つの劇場を持てば、財政的に破綻すると感じました。そこでプログラムの変更を最初に提案しました。その後、葦原さんを座長とする委員会で、町の人たちと話、町の人たちが思っているものをつくるということではじめて、七十ぐらい模型をつくって、論議をしました。

それから地域の人たちと「黒部文化クラブ」をつくりました。その人たちとひとつひとつの要素を話し合いながら進めていくやり方で、もともと地域にある文化活動の支援を私たちもやりました。また、林英哲さんや山下洋輔さんを読んできて、みんなで切符を売り、体験して、どんなプログラムがこの町に必要かを考え、シンポジウムを開いたりしました。

そのプロセスを通して、「女の子に会いたい」などの切実な望みも出てきて、ディスコやお酒を飲む場を計画しました。下水道局から配置換えしてきた人や、ジャズバンドをやっている役所の人など、このプロジェクトに生涯かけて参加したいという人たちを集い、約二年かけてプログラムをつくりました。そういう人事をやったのも、黒部市が初めてではないでしょうか。

全体で四ヘクタールほどの土地を、日本ゾーン、学習ゾーン、西洋ゾーンの三つに分けました。 五〇〇〇平方メートルほどの池があります。この池は小学校のプールの推量と同じです。

建物の中には、高齢者の対応として、斜路と階段でレベル差をつくっています。全部で十六ぐらいのレベル差があったと思います。

エントランスロビーがあり、そこから下に池側を五〇メートル歩くと大ホールです。ロビーから上がっていくと、レストランがあります。このレストランの経営をする人も、みんなでコンペで選びました。

図書室は、斜路で降りてくると暖炉と厨房があり、図書室の中で食べ物が食べられる新しいタイプの図書室をつくりました。

マルチに使える和室があり、そのさらに奥が、秀吉の黄金の茶室になぞらえた「銀紗庵」と名付けたアルミの茶室があります。絞り丸太の代わりに六ミリファイのパイプを髷て、透明性のある茶室をつくりました。能舞台では、二十六才の若い画家に、こどもたちの前でマツの木などを描いてもらいました。町の人たちは彼が東山魁夷のようにならないかと願っています。

展示室は、四角錐の二重の組合せで考えています。真ん中の心棒のところに大きい吹抜けがあり、外側に倒れかかる壁と中側に倒れかかる壁の間に斜路がスパイラル状に展開し、だんだん進んでいくと、自然に上に行って展示場が開いていくかたちになっています。「グッケンハイム美術館」のような建物です。このとき、レオナルド・ダヴィンチのスケッチ、そのスケッチがどうして日本に来たか、福島の三匝堂=さざえ堂=礼拝大賞の周囲を右回りに、三再匝るという仏教の礼法の話や。ライトの話を市民の人としました。ホールは音響を重視するとシューボックスと呼ばれる四角い部屋のスタイルのほうがいいのですが。昔の古典的な劇場の良さが失われてはつまらないと思い、永田音響設計の人たちとコンピュータで仮想の壁をシュミレーションして、それをうまく形骸化し、古典的でしかも音響を獲得することを考えました。障子も私たちがデザインして、ローコスト化を図っています。このシートは一段ごとに段差をつけています。ベルリンフィルとこの劇場のほかにはあまりないでしょう。バルザックの小説、「谷間の百合」の中で、うすあぁるい舞踏会で、主人公のフェリックスは見知らぬ貴夫人、ミセスモルソフの肩口にキスをしてしまう話や、「オペラ座の怪人」のシーンの中で、天井からバルコニー席の女の人の胸をのぞく怪人の話を市民の人たちとしました。視線の違うバルコニーからミセスモルソフスキと呼ばれる椅子に座って、眺める人たちがいるという具合です。

近代建築が奪い去ったものの中に、「場所性」と「メディア性」などがあります。普遍的なものを追求するが故に、いろいろなものが失われています。普遍的なものが特定の場所、人、現実の中で構築されるというジレンマが、近代建築の中に、もともと存在しています。ポストモダンが取り戻そうとしたものの中に、その「場所性」と「メディア性」があります。建築家が単に地域のかたちや、材料や、史的形態をコピーすると、ヒストリカル・クラシシズムに陥るということも、われわれは経験しました。しかしそれでは単にモダニズムに戻ればよいかというと、そうでもありません。建築家と施主、あるいは建物を使用する人の間にギャップがあります。建築家の説明と、例えばパンフレットなどにかかれている建築の説明は、まったく違うケースが多いんです。人びとが語るものの中に、かたちや材料や機能でない、何かがあります。例えば何かそこで起こった出来事や、建物を超えたイコンが語られています。このメディア性=イコンを近代建築がもっていないために、モノトナスになり、また人が見えてこないと思います。最近私は建築のつくり方の中で、このギャップを埋められないかと考えています。建築をつくるときに、何か後々物語の因子となる要素を、空間的に入れられないかと考えています。

«前のページへ最初のページへ次のページへ»