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東西アスファルト事業協同組合講演録より 私の建築手法

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隈 研吾 - 物質性とサイバースペース
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東西アスファルト事業協同組合講演会

物質性とサイバースペース

隈 研吾KENGO KUMA


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かたちの時代の終わり
かたちの時代の終わり

物質性もサイバースペースも、どちらも僕にとっては、とても魅力的です。コンピュータだけが表現できる空間の世界、というのも魅力的だし、それからもう一方で、物質だけで表現し得る素材の世界というのもたいへんに魅力的だなと感じています。そのふたつともが魅力的なのはなぜだろうか。これが解けたら、おそらく二十一世紀がどういう世紀になるか、二十一世紀の建築がどのような建築になるかという大きな問題も解けるのではないか。それをなんとか解きたいのですが、そのヒントのひとつになるのが、もはや「かたちの時代」ではない、ということだと思います。

建築はかたちである、とは、昔からいわれてきたことですし、建築家というのは形態をデザインする人だと思われてきた。しかし、それは本当かなと、最近つくづく思います。形態はある意味でどうでもいいのではないか、むしろ形態以外に建築のいちばん面白いところがあるのではないかと。ただ一般の社会は、建築家というのはかたちのデザイナーだと認識されていますから、建築家がやると奇抜なかたちのデザインが出てくるんじやないかと思われているところがある。私も確かに昔はそう思われたことがあったのですが、そういうかたちの時代がどうも終わりつつあるようなのです。

その原因はなんだろうかというのをいくつか考えると、そこにはメディアという問題が浮かび上がり、それがたいへん大きな役割を果たしていることがわかる。ここでいうメディアというのは、建築をいかに人びとに伝えるかというものです。二十世紀の建築がどのように人びとに伝えられてきたかというと、もっぱら写真を通じてでした。それも解像度の悪い白黒の小さな写真。みなさんが建築の歴史を勉強したときのことを思い出していただくとわかると思うのですが、建築の歴史の教科書には小さな白黒の寂しい写真が載っていて、それでル・コルビュジエの、ミース・ファン・デル・ローエの建築がこうだったということを、多くの方は勉強しているわけです。

写真を通じて建築を伝えるとなると、写真映えのする建築、よくフォトジェニックな美女(会うとたいしたことはない)といいますけれど、建築も写真映えのする建築、写真で撮ったときにワッといわせるような建築がいい建築であり、歴史に残る建築だと思われてきたのではないか。

しかし最近になって、それはどうも違う、と人びとは思い始めてきた。写真なんていうものは、実はそれほど価値がなくて、むしろ建築をひとつの時間の中で見ること、建築を歩き回ってきて全部を体験して、その体験の全体が面白いかどうか(そういうことを称してシークエンスの建築とかパッサージュの建築という人もいます)時間軸の中で建築を見て、初めて建築のよし悪しがわかる、ということに最近なってきた。

その原因のひとつには、ビデオのようなツールが普及してきたということがあります。

もうひとつは、そういうビデオ的なムービング・イメージをそのまま世界中に転送することができるようになったことです。インターネットというのはそういうメディアですね。静止画だけを転送する時代ではなくて、動画、要するに時間軸のあるものを転送することができるようになってきた。

その結果、写真で建築を判断する時代が終わってしまったのです。写真で表現できないものにこそ、価値があるように思いはじめた。たとえば実際に触ってみた感触とが、匂いとか、歩き回ったときに聞こえてくる音とか、そのような全感覚で建築を評価するようになってさた。視覚だけ、ましてや写真だけではない全感覚的評価というものが、建築の評価の重要なポイントを占めてくるようになったのです。

両極に分裂する建築

時間軸で建築を見る、そして全感覚的に建築を見るようになったとき、かたちだけの建築というものは時代遅れに見えてくる。ただ外見だけでよいとが悪いとかというのではなくて、もっと生々しい質感、つまり建築の物質性を突き詰めていかないと建築のよさがわからない。それをいい換えると、建築を、かたちとしてではなくて、自分の意識に作用する複合的メディアとして見ているわけです。

そうだとするとサイバースペースが与えてくれる体験も、建築が与えてくる体験も、同一平面上で論じられる、という現象が起こるわけです。すなわち、物質性とサイバースペースというのは、実は同じもののふたつの表れではないか、という気がしてきています。

今のメディアの革命、静止した写真的なものに代わって、コンピュータが新しい複合的メディアの形体を生み出しつつあるというメディアの革命が、これから加速度的に進展することを考えれば、「かたちの没落」は急連に進むでしょう。その意味で、二十一世紀の建築は、かたちを超えて、物質性とサイバースペースという両極に分裂して展開していくだろうと予測しています。

それを果たして「建築」と呼ぶのか、ということが、別の問題としてあります。建築というのは、なんとなくひとかたまりのかたちをイメージさせるところがあります。そういう建築のあり方を私は「オブジェクト」と呼んでいます。『反オブジェクト』という本を最近書きましたけれども、かたちではない建築というのは、建築とは別の呼び名をつけたほうがいいかもしれない。「環境」と呼んだほうがいいかもしれないし、それはもう「庭」と呼んだほうがいいかもしれない。そういうふうに呼ぴ名は変わったとしても、それを計画する計画者というのは必要で、みなさんは別に仕事がなくなる心配をしなくてもいいと思いますが、ただつくるものは現在とはまったく異なったものになるであろうという予感があります。

話をしているだけですと建築の講演というのは面白くないものですから、写真(どうしてもまだ写真に頼らなければなりません)とビデオをご覧いただきながら、「かたちを超えた建築」というものをお話したいと思います。

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