アスファルト防水のエキスパート 東西アスファルト事業協同組合

東西アスファルト事業協同組合講演録より 私の建築手法

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槇 文彦 - 近作を語る
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2008 東西アスファルト事業協同組合講演会

近作を語る - 建築のグローバリゼーションの中で考えること

槇 文彦FUMIHIKO MAKI


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質疑応答
——
数多くのコンサルタントがいることは、結果として施工のクオリティにプラスの影響を与えているのでしょうか?

なぜ分業化が進むのかという理由のひとつに、うまくいかなかった時の責任をすべて建築家に負わされることを避けるためという理由があります。海外では日本以上に訴訟が多く、お互いにやり合い、訴訟されてない建築家はいないくらいです。そうした中で、責任を明確にするために分業化が行われていくというのはあります。確かに訴えられにくい隙のないものをつくるということは、本当によい建築をつくるために大事なことのひとつだと思います。ですから施工が非常に複雑になってきている現在では、こうしたある程度の分業化は仕方ないだろうと思います。

1990年にサンフランシスコで、イエルバ・ブエナ・ガーデンの視覚芸術センターをやった時に、一緒にやったランドススケープ・アーキテクトの図面の密度にびっくりしました。それは人がすべって転んだ時にいかにけがをさせないか、というようなところまで克明に考えられていて、感心したことがあります。

またカーテンウォール・コンサルタントにも優れた人が多いです。たとえば日本ではカーテンウォール・コンサルタントがいないので、ちょっと知っている業者にお願いして「仕事はいかないかもしれないけど、ちょっとここを教えてくださいよ」という、何となしに「つうかあ」でやってしまえる慣習がずっとありました。それに対して、向こうのカーテンウォール・コンサルタントはいろいろなカーテンウォールの特質、長所、短所を客観的に知っているので、非常に助けになります。

しかし一方において、自分が中心になってすべて牽引していくといっいた、建築家の持っていたヘゲモニー(主導権)がなくなってきているのも事実です。最近日本でもありますが、ファサードだけを建築家にやってもらおうとする建築やコンペが出てくると、はたしてそれは建築家にとって本当によい傾向かどうか、ということも考えなければいけません。

またよい建物をつくることとは、よい仕事の集団を形成していくということです。日本だと知っている者同士のコンサルタント、それからよく知っているゼネコンやファブリケーターとの共同作業があり得ますが、海外だとまずお互いを知らないわけです。その中でもやはり、少しずつ相互の信頼感をつくっていく、ということが大切になってきます。海外で建築をする時、もう誰も見てないからこんなところでいいじゃないか、というような仕事をする人たちは実際にいます。契約でごねたりすると、もう来ないとか、そういうこともあります。つまりきちんとした仕事をするということは、ある程度の信頼感を相手が持ってくれないとできないということです。建築家はそれに値するだけの知識とコーディネーションの力を持つということが大事で、最後はそうしたヒューマン・リレーションに帰すると思います。

それからもうひとつ、非常によい人が施工側の代表になってきたのに、そういう人に限って、ある日どこかに引き抜かれていなくなったとか、そういうことも起こります。

ですから答えは簡単ではないんですが、分業化することによって、よい分業もありますが、同時に建築家のヘゲモニーが失われていく、というマイナス面もあるということです。しかしこれから訴訟、責任問題というのは、日本でも非常に大きくなっていくのではないかと思っています。

——
槇先生のように長い間世界のトップクラスで仕事をされ、建築家として長生きをするためのコツは何かあのでしょうか。

「好きこそものの上手なれ」と言いますが、建築に対して本当に興味を持ち、いろいろな角度から楽しんでいくことが、建築をやっていく上で一番大事なことです。今日は主にモノについてお話しましたが、建築とは最終的に人間を扱うということを忘れてはいけません。

ハーバード大学に行った時に私は文化人類学の授業を取りましたが、非常に面白いと思いました。われわれのDNAには人間の本性のようなものがもちろん入っていて、どんなクライアントやコンサルタントでも、皆ヒトとしてある行動をします。それにしたがって実際は社会体験をしているような、そういった面白さがあるわけです。

建築を楽しむというのは、このように人間とは何であるかということを考えると同時に、もうひとつはモノとは一体何なのだろうかと考えることです。それはコンクリートと煉瓦についてや、金属との特質、ガラスはどうなっているかなど、いろいろなものに対する興味を持ち、それを自分がどう統合していくかという作業のことです。

このように考えていけば、建築とは持続的かつ多角的にその興味の対象になると思います。嫌なことというのは私自身も含めて毎日山のようにあるわけですが、そうした中でも「空間とモノと人間」という基本的なことに自分の焦点を定めてやっていく、というのは必要なのではないかと思います。

——
建築に「夢」はあるとお考えですか?

「夢」は、おそらく建築のどういう部分を切るかによって違うと思うんですが、仮にこれから先の四、五年を考えてみましょう。

たとえば建物の建設が途中で止まって中止になってしまったとします。日本ではまだそういうことはあまり起きていませんが、こういう場合、アメリカだと訴訟の対象になります。しかし私は1970年頃にリオデジャネイロに行ったことがあるんですが、そこではいろいろな所に鉄骨やコンクリート・フレームだけの建物がありました。しかしその中の一ヵ所に案内されてエレベータでするすると上がっていくと、一番上だけ素晴らしいレストランになっていたんです。日本と違って、うまく操業許可を取っていたんですね。このように昔のブラジルだと、明日のことはまた明日という雰囲気でゆっくりと、建物はいつかできたらいいかなという風でした。しかしそういうことを許さない時代になってきた時に一番問題なのは、われわれの社会的組織がどうなるかということだと思うのです。

「夢」があるかという話も、昔のやブラジルで例えるならば、毎日半分できた建物を見ながら、あそこはどうすればよいだろうと考えることは非常に楽しいことで、建築に対するひとつの「夢」だと思います。しかし別の角度で切るとこれは生臭い話で、建設が止まってしまった責任をどちらが負って、どちらが訴訟に勝つんだというレベルの話になってしまうわけです。

私はこれから建築は決して好きなことをやれる時代ではなくなると思っていますし、既にドバイのような所では宴の終わりかもしれないという雰囲気でもあるわけです。しかし「夢」というのは、決してその大きさや高さと関係のあるものではなくて、その人がどんな建築の中で何をポジティブなものとして発見していくかということだと思います。ですから私は、建築というのはどんな時代、どんな状況においても、あるオプティミズム(楽観主義)に支えられてやっていかなければいけないし、やっていくべきものだと思います。

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